kuge’s diary

源氏物語を研究している久下からのお知らせです。

久下研究室のHP→http://www.ne.jp/asahi/kuge/h/

知の遺産シリーズ

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 〈目次〉

 文学史上の『紫式部日記』『紫式部集』―…横井 孝
 紫式部の生涯 ― 『紫式部日記』『紫式部集』との関わりにおいて ―…上原 作和
 『紫式部日記』『紫式部集』の成立―古本系集に増補された「日記哥」から考える ―…笹川 博司
 現行『紫式部日記』の形態―冒頭・消息体・十一日の暁、『枕草子』にも触れつつ ―…山本 淳子
 敦成親王誕生記としての『紫式部日記』―『栄花物語』との関連から ―…福家 俊幸
 『紫式部日記』『紫式部集』の中の紫式部中宮彰子サロンの中の紫式部 ―…廣田 收
 『紫式部日記』『紫式部集』の中の女房たち…福家 俊幸
 『紫式部日記』寛弘六年の記事欠落問題…久下 裕利
 『紫式部日記』の儀礼・服飾・室礼…末松 剛
 『紫式部日記絵巻』の視点―描かれた〈紫式部〉像 ―…川名 淳子
 『紫式部日記』『紫式部集』― 研究の現在と展望―付、主要文献目録(二〇〇〇年~二〇一八年)…上野 英子
 

 《所感①》

 〈知の遺産〉シリーズも『堤中納言物語の新世界』以来、突発的なトラブルにみまわれているが、今回のシリーズ7冊目に当たる『紫式部日記・集の新世界』も編者に関する点であったことに変わりはなかった。言うまでもなく目次を一瞥すれば知られるように、久下と横井の論が一篇しか掲載しておらず、福家氏の論だけが二篇掲載されている点である。本シリーズは編者の論考は二篇とすることがルールであったから、発起人がこのルールを自ら破ることになってしまった大失態を犯している点で今まで以上の汚点であることに間違いないのである。

 久下は「『紫式部日記』寛弘六年の記事欠落問題」の一篇を書き上げるのでさえ四苦八苦していたので、さらにもう一篇を書き上げることが不可能になってしまった。その原因が急激な気力の減退・喪失であったことになる訳だから、どうみても許されない事情であり、世間通念上通らない言い訳ということになろう。

 一方、横井は実践女子大学を定年退職という年次に当たり、余程校務や研究室のかたづけに忙しい日々が続いてのことであったことは推察されるが、これとて企画の段階で確認していたことであり、想定より現実の事態が切迫した困難を伴ったという以外に酌量の余地はない。

 二人の仕事がこのように中途半端であったからといって、もの自体に欠損があったりする訳ではないので、読者諸賢にはご容赦願えればと思う所存である。

 

《所感②》

 数人の方に本書を謹呈しているが、中でも信頼を置いているのが、早稲田大学の非常勤講師を長年勤めている才女で、いつもその返信を年甲斐もなく楽しみにしている。というのも、自分以上に論文の意図を的確に掬い上げて評してくれているからである。

 今回は多少違ったが、おそらくオンライン授業の準備などで忙しさが普段より倍増しているのだろう。以下、文面の一部を引くと

 

 先生の玉稿「『紫式部日記』寛弘六年の記事欠落問題」を拝読し勉強させていただきました。消息部が何故あの箇所に差しはさまれるのか、意図的なものなのか、強制されてのものなのか様々に疑問に思っていたところを、頼通成婚関連記事削除と后母としての倫子への献上という観点からこれまでの諸氏の論を有機的に結びつけられた上で解き明かしていただいたご高論と拝読させていただきました。女房評のところが〈宰相の君観察日記〉として読めるというご指摘も、「戸をたたく人」が実は頼通かもしれないというところも大変面白く、また敦成親王五十日の儀での倫子のふるまいについても、菊を贈ってきたときの倫子の口上についても、倫子の紫式部に対する敵意を読む論には違和感を感じておりましたので、今回の先生のご指摘がすっと頭に入りました。光源氏が紫上に対し恐妻家を演じてみせることで円満ぶりをアピールしているのと同様、満座の席でのこうした振舞はほほ笑ましいものとして映ったように思いますし、菊のこともねぎらい感謝を紫式部に対し示したものと解すことが自然に思えます。一つ不完全な体裁のままで何故献上させたのか、書き直させる時間はなかったのかということが気になっておりましたが、そのことについても寛弘七年当時の、後宮女房たちの人事権を掌握行使していた倫子にとってそのタイミングであるからこその献上本の意味があった、というご高説によって疑問が氷解いたしました。たくさんのことを学ばせていただきました。

 

 なお、拙稿「六条斎院禖子内親王家物語歌合と『夜の寝覚』―『夜の寝覚』の挑発と存亡・序章 その(二)一」(昭和女子大学「学苑」951号、令和2年1月)に対する返信も受け取っているが、そちらは割愛して、別に慶應義塾大学の某教授からのコメントを引いておきたい。それにはひと言こうあった。「論理と証拠で上質のミステリを読む思いでした」。

 この評言は私にとって最も喜ばしいコメントなのである。私は最近論文をミステリー小説の如く成り立たせるように書くことを心掛けているからである。国文学の古典作品や作者には多くの謎が残っている。その解決が急がれるわけだが、一方でそうした謎が多くあることを知らないので国文学への興味関心がわかないのも現状であり実状である。